神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

赤城神社(群馬県前橋市富士見町赤城山)(上野国式内社)

赤城神社(あかぎじんじゃ)。通称:赤城大明神。大洞赤城神社。大沼赤城神社。

場所:群馬県前橋市富士見町赤城山4-2。「(三夜沢)赤城神社」(2026年9月12日記事)前から群馬県道16号線(大胡赤城線)~同70号線(大間々上白井線)を北上、約15kmで右折(東へ)して同251号線(沼田赤城線)に入り約1kmで「小鳥ヶ島」へ渡る「啄木鳥橋」が架かる駐車場入口。県道をさらに北へ約200m進むと、社殿横に近い駐車場入口。

上野国勢多郡鎮座の延喜式式内社(名神大)「赤城神社」の論社で、現在は、赤城山の最大のカルデラ湖「(赤城)大沼」に浮かぶ半島「小鳥ヶ島」に鎮座している。3つの論社の中では最も赤城山に近く、南麓の平野部への水源地としての大沼・小沼への信仰も大きかったようだ。

社伝によれば、第10代・崇神天皇(3世紀後半~4世紀前半頃?)の皇子・豊城入彦命が東国平定の折、赤城山に国土開発の神である大国主神を勧請して東国の経営と疫病絶滅を祈願した。大同元年(806年)、大沼の南畔に社殿を造営した(この地を社殿造営の年号に因んで「大洞」という。)。国史の記事(神階授与)は論社共通なので「(三夜沢)赤城神社」(2026年9月12日記事)参照。江戸時代には、相殿に東照神君・徳川家康公を祀ったほか、「厩橋城(前橋城)」の鬼門を鎮めるものとして前橋藩主の厚い崇敬を受けることになった。また、赤城山登山などを含め、上野国はもとより、関東地方などから参詣者が訪れ観光地化して賑わうようになった。寛永19年(1642年)に前橋城主・酒井雅楽頭忠清が再建した社殿が赤城山の厳しい自然環境により荒廃したため、昭和45年、「小鳥ケ島」の現鎮座地に社殿造営・遷座した(元宮跡地に石鳥居などが残っている。)。旧・郷社。現在の主祭神は、大国主神・磐筒男神・磐筒女神・経津主神(総称して「赤城大明神」)で、相殿に徳川家康公・大山咋神を祀る。

 

赤城神社のHP

 

写真1:社号標(「延喜式内 名神大社 赤城神社」)と鳥居。「赤城神社」が鎮座する「小鳥ヶ島」という半島の南端付近にあり、ここから北へ進む。

 

写真2:境内

 

写真3:社殿

 

写真4:(赤城)大沼から見る「赤城神社」と赤城山。大沼は正しくは「おの」、小沼は「この」と読むとのこと。

 

二宮赤城神社(上野国式内社)

二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)。

場所:前橋市二之宮町886。国道50号線「二之宮町西」交差点から南に約250m、突き当たり丁字路交差点を左折(東へ)、約250mで鳥居前。駐車場は鳥居の西側の道路を北へ約60m進んだところにある。

上野国勢多郡鎮座の延喜式式内社(名神大)「赤城神社」の論社であるが、正式な社号に「二宮」を冠していること、現在の鎮座地が「二之宮町」であることから、各令制国で社格の高い神社を順に「一宮」、「二宮」...と称するようになった頃(平安時代末期頃?)には、当神社が上野国二宮の「赤城神社」と考えられていたとみられる。

社伝によれば、第11代・垂仁天皇(3世紀後半~4世紀前半頃?)のときに創建されたとされる。創建の経緯は不明だが、当地周辺は赤城山の南の平野で、赤城山を水源とする荒砥川(西側)と粕川(東側)に挟まれている。北東約3kmの「大室古墳群」など多くの古墳もあり、上野国を支配した「上毛野氏」の本拠地と推定されており、当神社を創建したのも「上毛野氏」の一族と考えられている。「赤城神社」は赤城山の自然信仰に発するものとされるので、当地は赤城山を遙拝する「里宮」だったと思われる。なお、当神社の特殊神事として、「(三夜沢)赤城神社」(前回記事)へ神輿を往復させる御神幸があるとのこと。

国史の記事(神階授与)は「赤城神」名なので、論社に共通する(前項記事参照)。当神社としては、平安時代末には神仏混淆が進み、永承4年(1049年)には、日本全国の諸社中から55社が選ばれて神仏習合の勅願神社となり、当神社内に塔が建てられ、心礎内に仏舎利が奉納されたという。鎌倉時代には征夷大将軍・源頼朝が守護・安達盛長に命じて修築営させたなどという記録がある。戦国時代には、小田原城主・北条氏政の軍勢によって数多くの建物が打ち壊されるなどして壊滅的被害を受けたが、北条氏滅亡後に大胡城主・牧野駿河守により社殿を整備されるなど、以後、ときの領主の庇護を受けた。旧・郷社で、現在の祭神は豊城入彦命と大己貴尊ほか数柱。

蛇足:上野国一宮は現・群馬県富岡市の「一之宮貫前神社」(上野国甘楽郡鎮座、延喜式式内社(名神大)、旧・国幣中社)であるが、「赤城神社」側では、本来、上野国一宮は「赤城神社」だったが、「貫前神社は女神であり「財の君」であるから他国に取られてはならぬ」として、また「赤城神社の神が絹織物を織るときに、外国から来た貫前神社の神に助けてもらったので、その技術を取られてはならぬ」として、「一宮」の地位を譲ったとの伝承があるという。

 

(参考)当ブログの前身「備前の古社を訪ねる」から(上野国一宮「一之宮貫前神社」)

 

写真1:「二宮赤城神社」社号標と鳥居

 

写真2:神橋(神代橋)と随神門。なお、境内は堀と土塁に囲まれた中世の環濠遺跡とされており、社地が前橋市指定史跡となっている。

 

写真3:拝殿

 

写真3:社殿

 

写真4:神額

 

写真5:本殿。拝殿と同じくらい大きな覆屋の下にある。

 

写真6:御神燈を支える力神? 境内には前橋市指定重要文化財の石造「宝塔」や鎌倉時代の塔心礎などもあるのだが、こちらのほうが面白くて、撮り忘れた。

 

写真7:同上

 

赤城神社(群馬県前橋市三夜沢町)(上野国式内社)

赤城神社(あかぎじんじゃ)。通称:三夜沢赤城神社。

場所:群馬県前橋市三夜沢町114。国道353号線と群馬県道16号線(大胡赤城線)の「三夜沢町」交差点から県道を北へ約2km。駐車場あり。

「赤城神社」は全国に300余社、群馬県内だけでも100余社あるとされ、その本宮は上野国勢多郡鎮座の延喜式式内社(名神大)「赤城神社」であるが、その論社は当神社、「二宮赤城神社」(現・前橋市二之宮町)、「(大洞)赤城神社」(現・前橋市富士見町赤城山)の3社があって、式内社の比定についてはそれぞれ有力。というより、3社あることの説明ができそうであるらしい。

社伝によれば、第17代・履中天皇のとき(5世紀頃?)の創祀とされる。東国の治定にあたった第10代・崇神天皇の皇子・豊城入彦命の子孫である上毛野君の一族が上野国(現・群馬県)を支配し、「御山」と呼ばれていた「赤城山」に対する自然信仰が始まりと考えられている。現・鎮座地は赤城山の南麓(標高約570m)にあるが、更にそこから山道を約2km登ったところに「櫃石」という巨石があって、古代祭祀の跡が確認されているところから磐座であるとされている。国史では、「赤城神」に対し、「続日本後紀」承和6年(839年)に従五位下、「日本三大実録」貞観9年(867年)に正五位下、同11年(869年)に正五位上、同16年(874年)に従四位下、元慶4年(880年)に従四位上の神階が授与されたことが見える。中世には、神仏混淆により、「小沼」の神仏として虚空蔵菩薩、「大沼」を千手観世音菩薩に当てて「西宮」(元三夜沢)、当地(赤城山)に地蔵菩薩が当てられて「東宮」が成立し、江戸時代には「三所明神」とも称された。明治2年には「東宮」・「西宮」を一体化して、現在地に社殿を造営した。明治4年に郷社、同12年に県社に列せられ、昭和19年には国幣中社の内示を受けた。現在の祭神は、大己貴命と豊城入彦命。

「赤城神社」が赤城山の自然信仰とすれば、「(大洞)赤城神社」が「山宮」、当神社が「中社」、「二宮赤城神社」が「里宮」ということになるが、位置的には、当神社が古くからの祀りの場所としては最もありそうな感じに思えるが、どうだろうか。

 

前橋市のHPから(櫃石)

 

写真1:境内入口の社号標(「縣社 赤城神社」)と素木の鳥居(ここから約370m南に「惣門」、約750mのところに「一の鳥居」がある。)



写真2:「神代文字の碑」。明治3年建碑、前橋市指定重要文化財。

 

写真3:拝殿

 

写真4:「たわら杉」。3本の杉の巨木で、俵藤太こと藤原秀郷が平将門討伐のため上野国府(現・前橋市元総社町?)に向かう途中、献木として植えたとの伝承がある。

 

写真5:本殿(群馬県指定重要文化財)

 

写真6:石祠

 

土津神社

土津神社(はにつじんじゃ)。

場所:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山3。行き方は、「磐椅神社」(前回記事)参照。

会津藩初代藩主・保科正之は、慶長16年(1611年)、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれたが、庶子だったため密かに信濃国(現・長野県)高遠藩主・保科正光の子として育てられた。その後、高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主となった(なお、松平姓を名乗り、親藩となったのは第3代藩主・正容のときから。)。高遠藩主のときから名君との評判が高く、長兄である第3代将軍・家光からも重用された。また、卜部神道を深く信仰し、師・卜部惟足から「土津」の霊号を受けた。五行思想にいう「土」は安定や豊穣などを表し、これに会津の「津」を合わせたものらしい。寛文12年(1672年)に亡くなると、「磐椅神社の神地に神式で葬るように」との遺言に従って第2代藩主・正経により社殿が建立され、延宝3年(1675年)に落成、式内社「磐椅神社」(前回記事)の末社となった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で会津藩が敗れ、当神社にも火が放たれ全焼した。その後、会津藩が斗南藩(現・青森県下北地方)に移封されたとき、御神体も遷座したが、明治4年の廃藩置県により猪苗代に戻り、いったん「磐椅神社」に祀られた。明治13年に当神社社殿再建。現在の祭神は、保科正之(土津大明神)。

正之は、由緒ある「磐椅神社」の末社となって磐梯山の神に永遠に仕えたいとの希望を持っていたとされるが、「若松城(鶴ヶ城)」の鬼門である丑寅の方角(北東)を守るとの意味もあったと考えられ、現在も「会津守護神」と称されている。

 

土津神社のHP

 

写真1:「土津神社」社号標(「国史跡指定会津藩主松平家墓所 会津守護神 土津神社」)と境内案内図。背後のイロハモミジは京都から移植されたものという。

 

写真2:白く巨大な大鳥居

 

写真3:「いなわしろ新八景」石碑

 

写真4:「奔雷瀑」。今は水量が少なくなったが、本来は勢いよく水が落ちていたらしい。

 

写真5:御神木の高野槙(コウヤマキ)。他に樹齢約400年という這松(ハイマツ)もある。

 

写真6:「土津霊神碑」。会津藩初代藩主・保科正之公の事績を刻んだもの。日本最大の石碑といわれ、高さ7.6m、重さ30t。

 

写真7:同上、霊亀を台座にしている(いわゆる亀趺碑)。通称:亀石。この亀は、元は南の猪苗代湖を向いていたが、夜な夜な猪苗代湖の水を飲みに出かけていたといわれ、北向き(磐梯山の方向)に変えたところ動かなくなったという。

 

写真8:拝殿

 

写真9:本殿は修繕工事中。創建当時は「日光東照宮」に準えて「東北の日光」と称されるほど壮麗であったが、戊辰戦争で焼失し、現在の社殿は明治時代に再建されたもの。再建から約150年が経過して老朽化が進み、令和7年の豪雪により本殿棟木が落ちるなど大きな被害があった。令和7年に鎮座350年となり、その記念事業として修繕工事中で、奉賛金を募っている。

 

写真10:社殿横から、奥之院である保科正之墓所(国指定史跡)に向かう参道があるが、熊出没の多発地帯とのことで、断念した。なお、墓所まで車道があり、近くに駐車場もあるとのことで、それを利用するのがよいかもしれない。

 

写真11:東側の鳥居。この坂を下りたところに「磐椅神社」(前回記事)への道がある。

 

磐椅神社(陸奥国式内社)

磐椅神社(いわはしじんじゃ)。通称:いわきさま、峰明神。

場所:福島県耶麻郡猪苗代町西峰6199。「道の駅 ばんだい」前から福島県道64号線(会津若松裏磐梯線)~同7号線(猪苗代塩川線)を東へ約11km、変形十字路を左折(北へ)して県道324号線に入り、約500mで「土津神社」前駐車場。そこから東~北へ約160mで右折(北東へ)、約500m(案内板には「200m」とあるが、もっと距離がある。)。当神社への道路は狭く(自動車のすれ違い不可)、未舗装で、片側が水路(土田堰)、反対側が崖(ガードレール無し)という怖い道なので、手前の駐車場から歩くことが推奨されている。

社伝によれば、第15代・応神天皇の摂政・神功皇后のとき(250年?)、大臣・武内宿禰の巡視の砌、勅命を奉じて国土開発の神である大山祇命・埴山姫命を磐椅山(現・磐梯山)の頂上に祀った。天平元年(729年)、見袮山南麓の現在地に遷座し、相殿に誉田和気命(応神天皇)と息長足姫命(神功皇后)を配祀した(これにより、「見祢明神」・「峯明神」とも称された。)。斉衡2年(855年)、「陸奥国石椅神に従四位下(の神階授与)」の「日本文徳天皇實録」記事がある。「延喜式神名帳」(927年完成)登載の陸奥国揶磨郡鎮座「磐椅神社」とされる。天暦元年(947年)、第62代・村上天皇の勅使が参拝、その折に京都から移植した桜樹を「大鹿桜」という。また、猪苗代城主・三浦経連が承元元年(1207年)、現在の場所に旧社殿のまま移し、植えた杉樹を「鳥居杉」と称する。その後、兵乱にあって衰微したが、会津藩主・保科正之が篤く信仰し、寛文年中(1660~1672年)に社殿を造営した。旧社格は県社。現在の祭神は大山衹神と埴山姫命で、相殿に木花佐久夜毘賣命、磐長姫命、品陀和氣命、息長足姫命を祀る。

神功皇后云々は流石に神話として、「磐梯神社」(前回記事)でも書いたように、「磐椅」も「磐梯」も岩の梯子(はしご)という意味であり、元は「磐梯山」自体を神格化したものと思われる。

 

磐椅神社のHP

 

写真1:「磐椅神社」社前の石段と「鳥居杉」

 

写真2:「鳥居杉」。元は2本あったが、西側のは昭和33年の台風により大きな被害を受け、昭和61年に倒れてしまったらしい。残った方は推定樹齢800年以上といい、猪苗代町指定天然記念物。なお、中ほど二股別れの所に、山桜の寄生木がある(「えんむすび桜」と称する。)。また、根元に「宝の水」という湧き水があり、これを目当てに地元の人は危ない道も何のその、社前まで自動車で乗りつけるようだ(見ていると、参拝せずに水だけ汲みに来る人が多かった。)。

 

写真3:鳥居

 

写真4:拝殿

 

写真5:拝殿の彫刻

 

写真6:神額は「正一位磐椅大明神」

 

写真7:本殿

 

写真8:「大鹿桜」。葉と花が同時に開き、ソメイヨシノより濃い色味の花が咲く。花の色が白~ピンク~鹿の毛色に変化することから「大鹿桜」と名づけられたという。見頃は4月下旬~5月上旬。「会津五桜」の1つで、福島県緑の文化財登録第1号、猪苗代町指定天然記念物。推定樹齢は1000年以上とされる。

 

写真9:境内社?

 

写真10:「磐梯山」(県道7号線沿いの「磐梯山遠望箇所」から)。現在の標高は1816mだが、元は2000m以上あったといわれている。また、明治21年の噴火により「小磐梯」が山体崩壊して、山容が大きく変わったという。

 

磐梯神社(福島県磐梯町)

磐梯神社(ばんだいじんじゃ)。

場所:福島県耶麻郡磐梯町磐梯並杉5300。「史跡 慧日寺跡」(2026年8月1日記事)入口の手前の丁字路を東に入り、約50mで左折(北へ)、道なりに北東へ約300m。駐車場有り。

社伝によれば、大同2年(807年)、法相宗の僧・徳一が「慧日寺」を開創した際、本尊を薬師如来とし、磐梯山の山上に祀られていた磐梯明神を奥宮として勧請したとされる。いわゆる神仏混淆にあったが、明治期の廃仏毀釈により「慧日寺」は廃寺となり、その薬師堂を「磐梯神社」とした。明治5年、社殿(旧・薬師堂)が火災で焼失、焼け残った仁王門を移築して、中に御神体が安置された。明治19年、郷社に列格。大正12年、神殿再建。昭和45年、「慧日寺跡」が国史跡に指定されて復元整備が計画されたため、現在地に移転することとなり、平成12年に完工した。現在の祭神は、大山祇命と埴山姫命。

「延喜式神名帳」に登載された陸奥国揶磨郡鎮座の式内社「磐椅神社」(論社)とすることがあるが、現・福島県猪苗代町に「磐椅神社(いわはしじんじゃ)」があり、そちらを式内社とするのが一般的だろう。ただ、どちらも、磐梯山(旧名:磐椅山。いずれも「岩の梯子の山」という意味)そのものを神格化したものと思われ、社殿は里宮あるいは遥拝所という位置付けだろうと思われる。

なお、毎年、春彼岸の中日に祭礼の中で行われている「磐梯神社の舟引き祭りと巫女舞」は福島県指定重要無形民俗文化財となっている。「舟引き祭り」は、太い舟型の木の台に新たに編んだ俵を3つ積み重ねて幣束を1本立て、台の両端に長くて太い綱を2本ずつ縛りつけて東西の向きに置き、大太鼓を合図に引き始める。3回引き合い、磐梯山がある東が勝てば豊作となって米の値段が上がるという。判定は翁面をつけた神職が行うが、この翁は磐梯明神とされ、判定の場に神が姿を現すというのは民俗学的にも珍しいとのこと。なお、彼岸の中日に行われるというのは、本来、「慧日寺」で行われていた行事が神仏分離時に当神社に引き継がれたからとみられている。

 

文化遺産オンラインのHPから(磐梯神社の舟引き祭り)

 

写真1:自然石の社号標「郷社 磐梯神社」

 

写真2:加工石の社号標「郷社 磐梯神社」

 

写真3:鳥居

 

写真4:社殿

 

写真5:社務所

 

写真6:石祠

 

写真7:神社移転の経緯を記した「記念碑」

 

如蔵尼之墓(福島県磐梯町)

如蔵尼之墓(にょぞうにのはか)。

場所:① 福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯小字小中野原3576。「慧日寺資料館 第一駐車場」(「史跡 慧日寺跡」(前回記事)参照)から西へ約500m、道なりに北へ約60m。駐車場なし。北へ曲がるところから1車線の狭い道路になり、その先は行き止まりになるため、注意。②福島県耶麻郡磐梯町磐梯本寺上。「史跡 慧日寺跡」入口前。駐車場あり。

平安時代中期の下総国(現・茨城県南部・千葉県北西部)の豪族・平将門は「承平天慶の乱」を起こしたが、天慶3年(940年)に敗死した。将門の生年には諸説あるが、亡くなったときに38歳(満37歳)だったといわれている。複数の妻妾があったらしいが、詳細は不明で、子の消息については殆ど伝説しかない(将門の死後に落ち延びたとされる次男・将国以下の系譜については「相馬小太郎の墓」(2026年6月20日記事)参照)。女子については、次女の春姫(如春尼)が平忠頼に嫁いで千葉氏らの祖となったという伝承があるが、真偽は不明。三女の如蔵尼(俗名不明)は、「今昔物語」(平安時代末期)や「元亨釈書」(元亨2年(1322年))などによれば、将門の死後は陸奥国に逃れ「慧日寺」(前項「史跡 慧日寺跡」記事参照)の傍らに庵を開いて隠棲していたが、あるとき病気で死ぬと、将門の罪により地獄に落ちた。しかし、地蔵菩薩の助けにより蘇生し、以後、地蔵菩薩に深く帰依して80余歳まで長生きしたという。また、天禄3年(972年)、将門の三十三回忌のために将門終焉の地とされる現・茨城県坂東市岩井に戻って、「國王神社」(2012年10月6日記事)を創建したとされる。

さて、将門自身、「日本三大怨霊」の1人とされ、身体はこめかみ以外は鉄だったとか、討たれて京都・七条河原に晒された首が空を飛んで関東に戻ったとか、いろいろな「超人伝説」がある。これと、上記の「今昔物語」等の如蔵尼の地獄落ちから着想を得て、将門の娘が妖術を得て朝廷に復讐しようとするのが瀧夜叉姫の物語で、江戸時代後期の戯作者・山東京伝が読本「善知安方忠義伝」で語ったのが最初とされ、歌舞伎などにも仕立てられている。瀧夜叉姫の物語では、将門の長女(五月姫)または三女(瀧姫)ということになっていて、「貴船明神」から妖術を授けられて謀反を起こそうとするが、勅命を受けた大宅中将光圀に敗れ、尼寺に入った(または昇天した)、というのが粗筋。「今昔物語」などでは、あくまでも地蔵菩薩の功徳を讃えるのが主題だったが、江戸時代には如蔵尼=瀧夜叉姫というのが一般的となって、物語の主役である人物の墓とされるものが各地に現れたということだろう。

「史跡 慧日寺跡」近くに2ヵ所、「如蔵尼之墓」という石塔がある。どちらも、如蔵尼の墓、としているが、瀧夜叉姫の墓として伝えられたものらしい。因みに、福島県いわき市四倉町玉山に真言宗智山派「甚光山 毘廬遮那院 恵日寺」があり、その近くの丘の上に小さな塚があって、傍らに「瀧夜叉姫之墓 法名 如蔵尼」という石碑が建てられているという(未見)。また、現・茨城県つくば市には「瀧夜盛姫の墓」(2021年5月8日記事)、現・秋田県仙北市に「姫塚」(2016年10月15日記事)がある。

 

写真1:「如蔵尼之墓」①。享和2年(1802年)に村人によって建てられた供養塔であるという(現地説明板による)。

 

写真2:同上。こちらには「瀧夜叉姫が将門の死後に再興を図ったが失敗し出家した」と記されているというが...不明。

 

写真3:「如蔵尼之墓」②。会津藩の儒学者である阿部井澹園が「元享釈書」の記述をもとに草したもので、享和2年(1802年)に建てられたという(現地説明板による)。

 

参考:歌川国芳「相馬の古内裏」(江戸時代末期)。妖怪「がしゃどくろ」のイメージとなった浮世絵として有名だが、左端の人物が瀧夜叉姫で、妖術により巨大な骸骨の妖怪を呼び出す場面を描いたもの。